さよはじ

さよならとはじめまして そろそろ就活生。地方の女子大学生。

全然死にたくないけど、自分の死を考えるとき

最初に申し上げておきたいのですが、私は現在自殺願望もないし、明日も普通に生活するつもりですし、これといって大きな悩みを抱えているわけではありません。

 

でもふと、「あー、全く死にたいなんて思わんけど、生きんくてもいいなぁ」と思うときがチラホラあるよという話をこれからします。

憂鬱な気分にさせるつもりもございませんので、どうかボーっと読んでください。

 

 

私は現在大学生です。両親からの仕送りとわずかなバイト代で、毎日美味しいご飯を食べているし、充分な睡眠時間はあるし、素敵な友達もいます。勉強もときどきしています。

私はこの毎日にとても満足しているし、幸せを感じています。

だから、今ふとこの人生が終わっても、いいなと思ってしまいます。

いつものベッドにもぐりこんで、「あー、あったかいなー」と感じながら、ぐっすり寝て、そのまま心臓が止まって、そのまま人生を終えるのって、実はめちゃくちゃ幸せなんじゃないかと、たまーに考えてしまいます。首を吊るとか、手首を切るとかそういう最期ではなくて、あくまでも「あったかいお布団で眠った延長にある最期」のお話です。ファンタジーだと思ってください。

 

何度も言いますが私は死ぬ気はありません!!!

私が死ぬことで、悲しませてしまう人や迷惑をかけてしまう人がたくさんいることも重々承知しておりますし、だからこそ死にたいなんて全く、まっったく思いません。

 

でもやっぱり、ふと、思うんです。

この先、つらいこと悲しいことを含む何があるか分からない世界で、年老いていくより、幸せを十分に感じている今、人生をスッと終える方がもしかしたら、、、と。

 

これは私だけなのでしょうか?

※何度も、何度も言いますが私は死ぬ気はありません

 

宝くじやくじ引きは、欲がない人のほうが当たるなんてよく言うじゃないですか。だから、もしかしたらこの先右肩上がりの人生かもしれないけれど、そんな賭けには出ず、そして欲張って欲張って生きることを選ばず、幸せな今この瞬間を強制的に人生のピークにして、この辺でオイトマ…と言いますか。

 

 

 

ずいぶん前にこの話を先生にしたら、盛大に笑われました(笑)

私もそういうトーンでお話したので、笑ってもらえてむしろ良かったのですが(ですので先生を悪く思わないでくださいね)、共感をしていただいたわけではないので、私はやはりちょっとずれてるのかな、なんて思ったのです。

 

私は今日の夜もいつもの布団でぐっすり寝て、朝になったら眠い目をこすりながら冷たい水で顔を洗うでしょうし、学校にも行くし、友達とご飯を食べるし、バイトに行くし、母親とメールをするし、またいつもの布団で眠ります。

 

なんて幸せな日々なんだ。

だからこそ、これで終わっても全く悔いはない。

そう言える毎日を過ごせていることもまた、幸せなんだなぁと思う今日この頃です。

何度も言いますが私は死ぬ気はありません!!!

明日もきっと図太く生きております!!!就活頑張るぞ!!!!

ディズニーリゾートで現実を見る

昨年のクリスマスシーズンに、友達3人でディズニーリゾートへ行ってきました。そのためにバイトも頑張って、お金貯めて、贅沢な旅ではなかったけれど、仲の良い友達と過ごす旅行というのは楽しいものです。「あぁ、青春してるぅ」と、写真を撮りながら何回も思いました。結婚したら子どもを連れてきたりするのかなぁなんて妄想もしながら。

まあ2週間後に彼氏と別れたけど(傷はだいぶ癒えました)。

 

私が初めてディズニーランドに行ったのは5歳の時で、それから2年に一度のペースで親に頼み込んで連れて行ってもらっていたくらい、ディズニー大好き少女でした。地方出身なので千葉東京には飛行機でないと行けませんでしたし、両親にとっては大きすぎるわがままだったと思います。

小3のころにはシーもランドもすべてのアトラクションの名前や位置を覚えていたし、パレードやショーのCDまで買いあさっていました。私に連れまわされていた両親は今考えると大変だったろうなと思います。金銭的にも体力的にも。

中学生になって、部活で忙しくなったころから家族旅行にも行かなくなり、自然と私のディズニーマニアっぷりも薄れていきました。

久々にディズニーを訪れたのは高校の修学旅行で、大学生になってからも3度、インパ(インパーク、入園の意)しました。

 

 

が、夢と魔法の王国であるはずのディズニーランドで、年老いた私はだんだんと現実が見えてくるようになってしまいました。

大学生は、世間一般的にはまだまだ若くてピチピチで、制服ディズニー(※高校の時の制服等でインパすること。私はこれを大変イタいと思っている。)とか、カップル旅行の定番というイメージが強いと思うのですが、私はだんだんと、母がかつて180分待ちのビッグサンダーマウンテンに死にそうな顔で並びながら言っていた「あなたもね、今はディズニーランドが楽しくて楽しくて仕方がないかもしれないけれど、お母さんの気持ちがいつか分かるよ。」という言葉の意味が、分かってきました。

 

 

売っているものが総じて高い

当たり前でしかないのですが、ディズニー内で売っているものは、高いです。大学生になり、一人暮らしをはじめ、物の相場というものがなんとなく分かってきた今、冷静になって値段表示を見ると、なぜポップコーンや飲み物がこんなに高いのか。なぜファストフードにこの値段なのか。なぜ、どうせ一度きりしか被らない帽子やカチューシャがこの値段なのか。

ものの価格が気になって気になって仕方がなくなって、躊躇し始め、思いっきり楽しめなくなる。

近所のロー●ンで売っている同じようなチキンや、コス●コで売っているチュロスの値段を思い出して、「嘘だろ」と言いたくなる。

もちろん、その値段を払う価値はあります。ディズニーブランドという付加価値の存在は、大きいです。

ただその、値段とか価値とか、子どものころは何も気にしていなかった、「裏でチラつく何か」が見え始めてしまうと、あの頃のように100%ピュアな心でディズニーを楽しむことはできなくなってしまうのです。

ディズニーに、もっとものを安くしろ!!と言いたいわけではありません。

私が、経済的にも、精神的にも貧乏ってことで、私は納得できています。悲しい。

 

 

 

 

私だけの夢の世界ではない

当たり前でしかないのですが、ディズニーリゾートは私だけのものではありません。あの空間に、何万人もの人が密集しています。

3分ちょっとで終わる乗り物のために、200分以上並ぶ。ボーっとしてたらあっという間に通り過ぎるパレードのために、数時間場所取りをする。いい席でショーを見るために、倍率の高い抽選に挑む。

私たちは、夢の国において皆ができるだけ同じだけの夢を見られるように、各々忍耐力を要求されます。誰かだけが特別なのではなく、数万人が、できるだけ同じだけの贅沢ができるように、皆で理解し合わなければならなりません。

平和です。ディズニー側も、ファストパスの導入やショー抽選のアプリ化、パレードの場所取りの規制等を行い、全員に平等に楽しんでもらえるように本当に頑張ってくださっています。

 

平和でしかない。

 

しかし私(21歳)は、凍える寒さの中、高いなぁと思いながら買ったホットドリンクを片手に、レジャーシートを敷いて、クリスマスの衣装に身を包んだミッキーやミニ―が目の前にやってくるのを待ちながら、ふと思いました。

 

「なにをしてるんだ私は」

 

 

 

 

美脚

ミッキーに中の人などいない。

ミッキーは世界に一匹しかいない。

ミッキーは世界の恋人である(※TDLでのショー「ワンマンズドリーム」終盤のミッキーメインの場面で流れる歌♪ミッキーマウス Our Shining Star の歌詞より)。

 

これらは世界の共通認識であります。

私はディズニーランドやシーに行くと、必ずミッキーと写真を撮ります。

先日も例外ではなく、「ミッキーの家とミート・ミッキー」を訪れ、映画撮影の休憩中であるというミッキーと対面し、写真を撮ってきました。

このミート・ミッキー、ミッキーは四種類の衣装のうちどれかを着ていて待ってくれています。行くまでどのミッキーに会えるかは分かりません。

私が先日対面したのは、「蒸気船ウィリー」の衣装を着たミッキー。

この衣装のミッキーは、四種類の中で唯一、ハーフパンツを履いています。

 

ミッキーの衣装は、マフラーと、ハーフパンツのみです。

上裸、生足です。

上半身はさておき、友達がミッキーとハグしている間にボーっと見つめていたミッキーの生足が、なんかこう…曲線美…人間界で馴染みのある曲線を描いていたわけです。

家に帰ってからも、カメラロールを見返しては、ミッキーの生足を凝視している私には、今後彼とハグして写真撮ってもらう資格はないかもしれないな、と思っています。

 

 

 

 

 

なんだかんだ書きましたが、私はディズニーが好きです。

本当に好きだし、今でも2005年夏に開催された真夏のエンターテイメントショー「ブレイジング・リズム」のサントラCDはノリノリで聞いています。次点で好きなのは、もう終わってしまったけれど、ディズニーシーでかつて開催されていた「ハーバーサイド・クリスマス」で毎年おなじみだった「ウェルカム・トゥ・クリスマス」という曲です。「ビッグバンドビート」でシングシングシングに合わせてドラムを叩くミッキーを見て毎回泣きます。これくらいでマニアと名乗るなと言われそうですが、本当にディズニーは好きです。

 

ただ、私が年老いたという、それだけのお話です。

子どものころ私のわがままを聞いてくれたお父さんお母さん、本当にありがとう。

そしてお疲れ様でした。

 

長くなったのでこの辺で。最近寒いですね。

受験コンプレックス

来週はセンター試験だそうで。私たちの代からすると、センター試験は3年前の出来事です。

ただ、私にセンター試験の思い出はありません。

今の大学には、いわゆる推薦入学の形で入りました。受かるはずないと思って受験して、まさかの合格。自分の受験番号を見つけたときは嬉しさより驚きのほうが大きかった記憶があります。むしろ、私を合格させるこの大学は大丈夫かと思いました。

センター併用の入試ではなかったため、12月には晴れて自由の身だったわけですが、周りはここからが追い込み時という時期。友達の邪魔をしないように、私の存在で友達をイラつかせないように、私なりに気を付けていたつもりでしたが、本当の受験戦争を経験せずにいる人間がそこに存在するだけで、周りは本当にイラついていたと思います。

高校にも推薦入学だったので、私は受験という受験を経験したことがありません。

 

それをコンプレックスに感じ始めたのは大学に入ってしばらくしてから。私には、この人たちのように、「努力した結果今がある」と誇れるものが何もないのではないか、と周りの友達を見ながら感じ始めました。周りはほとんど一般受験組で、受験期の話はどの人に聞いても壮絶です。なんだか、それがとてもカッコよく思えて、自分がなんにもない空っぽな人間に思えたのを覚えています。

 

日本はよく、大学に入るのは大変だけど、出るのは簡単であると揶揄されます。確かに、入学して時間がたつにつれて、受験期の姿が想像できなくなるほど堕落していく大学生は多いですが、それでも私は、努力や我慢を積み重ねてきた結果ここにいる彼らを、カッコいいなと思うわけです。

 

今の大学の今の学科にいることに後悔は全くありませんが(私は当時、勉強していた科目が足りず、今の学科には推薦入試でしか行く方法がなかったので、それに落ちたら他の大学を受けるつもりでした。なおさら幸運だったと思います。)、もし高校3年生に戻れるとしたら、一般受験で行ける大学を目指すかもしれません。受かった身で言うのもおかしなことですが、推薦入試やAO入試って、どうなんでしょう。私と同じような、あとから襲ってくる「受験コンプレックス」の大学生(高校生)って、意外と多いんじゃないでしょうか。

努力した人って、やっぱりカッコいいですよね。

 

私もなにかやり遂げたいと思う2016年でございます。就活解禁まであと少し。

ツイッター事情

私はツイッターを利用しています。

が、アカウントは二つ。

ひとつはいわゆる「リア垢、本アカ」というやつで、大学や地元の友達先輩後輩をフォローしているもの。企業や有名人などは一切フォローせず、知り合いに限定してつながっています。つぶやきは主にリプライで、あまり自分のツイートはしない。

 

もうひとつは、完全に私しかしらないアカウント。「裏垢」という言葉がありますが、誰にも教えていないので裏なのかなんなのかさえ曖昧です。フォローしているのは企業から有名人、bot、どこのどなたなのかは分からないけれど気になる方などなど、リアルなつながりが一切ないアカウントのみ。非公開アカウントにしており、自動フォローバック等もすべてお断りしているので、フォロー200、フォロワー0のようなかたちです。そのかわりガンガン呟いています。日記のつぶやき版です。

これ、結構おすすめです。そのかわり私が決めているルールは、「ネガティブなつぶやきに他人の名前は絶対に出さない」。つぶやきの中には愚痴っぽいものも残念ながらあるんですが、そういったマイナスな投稿に人の名前は絶対に出しません。もしものアクシデントが起こって誰かに見られてしまったり流失してしまったりしたときの対策ではあるのですが、意外と、怒りの対象である人の名前を書かなかった愚痴って、あとから見返すと、誰に対する不満なのか、思い出せなくなるものです。本当に。よっぽど具体的に愚痴らない限り。

 

そもそも私は、友達と過度につながりすぎてしまうSNSがあまり得意ではないのかもしれません。一緒にいるわけでもない相手の言動が分かっていてしまうと、距離感がマヒするし、実際に会ったときに交わす「最近なにしてたの?」というやりとりの中身が希薄になってしまう気がするのです。

それに、その人のことは好きなのに、SNSの使い方に疑問を持ってしまったりする。知りたくなかった一面を知ってしまったりする。最近は、「これ以上この人のことを嫌いになりたくないから、ツイートをミュートにしておく」なんてこともちらほら。

とはいえ、やっぱり見てしまうものなんですけどねぇ。タイムラインを眺めてたおかげで思い出す課題の存在とか、今やってるおもしろいテレビ番組とかありますからね…(笑)

 

現代っこ(もう二十歳すぎてますけど)の苦悩。

今の中高生はもっと大変なのかもしれんなぁ~。

失恋しました

先日、失恋しました。

失恋にも、片想いが叶わなかったとか、恋人との別れとか、いくつかあると思いますが、私は後者です。
それに、お互いのことが好きなのだけれど、お別れしましたというパターン。以前の私はこういう別れ方、絶対にあり得ないと考えていました。好きなら一緒にいればいいじゃないかと。でも、違うんですねこれが。好きだけど、好きだから、辛いことだらけになっていくのが、どうしようもなく苦しくて、今回私からお別れを切り出しました。

一緒に居ることによる苦しさと、別れてしまったあとの寂しさのどちらが大きいか、何度か考えてみたりもしましたが、どっちも結局辛いものです。
私からさようならをしたわけですが、フラれた相当のダメージだし、失恋と呼ぶにふさわしい感情を、ここ何日も抱えています。


彼と別れてジワジワ感じているのは、無条件になにかを共有できる相手がいなくなってしまったなということです。
美味しいものを食べたとき、面白いことがあったとき、じっくり考えさせられる事に出会ったとき、今までは彼とお互いに話題を投げ合っていたのですが、その相手がいなくなってしまったことに最近ぽっかりしたものを感じています。
その相手が欲しいからよりを戻したいとか、新しい恋人が欲しいとかいったことは思いませんが。

このブログを開設したのはそういった経緯でござんす。
返ってこなくても良いから、私が思ったことを投げることのできる場を持ってみようと思ったわけです。

「さよならはじめまして」というフレーズは、中学生のころから好きな椎名林檎(東京事変)さんの楽曲に度々出てきて、私の好きな言葉です。
私が知っている範囲では、「この世の限り」、「能動的三分間」、「長く短い祭」の歌詞の一部に出てきます。
さようならによって、はじめましてが生まれたという意味で、今回ブログのタイトルにするにはしっくるなぁと思いながら、30秒くらいでつけました。